時代が変わってもヒトとモノの賑わい溢れる場所時代が変わってもヒトとモノの賑わい溢れる場所

かつて中央線の御茶ノ水駅と神田駅の間に、「万世橋(まんせいばし)駅」という駅があった。現在は廃止駅になっていて、名前の由来は神田川に架かる万世橋に由来する。 

万世橋 

神田須田町一丁目と外神田一丁目を結ぶ橋です。最初は明治17(1884)年に架けられた木橋で「昌平橋」と呼ばれ、その後、「新万世橋」→「万世橋」と名称を替えました。明治36(1903)年にほぼ現在の位置に架けられましたが、関東大震災で被害を受け、昭和5年に長さ26m、幅36mのRC造アーチ橋が完成しました。この橋は、巨大でアールデコ調の橋灯付き親柱が特徴です。 

1912年(明治45年)に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋が、2013年9月14日に「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」として開業した。 

https://www.ikyu.com/kankou/spot6779/

こちらの商業施設の中には 

・創業190年の木内酒造が都内初の直営販売店(https://kodawari.cc/restaurant/kiuchi_kanda.html) 

・ブルーボトルコーヒー(https://store.bluebottlecoffee.jp/pages/kanda)が入っている。 

飲食店だけでなく服飾(https://fabric-tokyo.com/stores/akihabara)、 

アクセサリー(https://www.instagram.com/neufnoi_by_atelier03/)、 

眼鏡(https://www.ohmyglasses.jp/about/ask-us/stores/akihabara/)など、広くはない敷地に17の施設がある。階段、壁面、プラットホームなどの遺構がよみがえった空間の中に知的好奇心を掻き立てるような趣味性、嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設。文化性を求める人たちが語らう往時のサロンのように、日本の「今から」の価値を発信し、街のムードやにぎわいを創出する“周辺エリア活性型商業施設”です。(HPより) 

また、こちらの2階には旧万世橋駅の開業時に作られたホーム部分を『2013プラットホーム』として整備、デッキとしてよみがえりました! 

ガラスに囲まれた展望デッキからは中央線の車両を行きかい、鉄道ファンだけでなくこんなに至近距離で通過する電車を見ることができるのは大興奮もの! 

またこちらのデッキに向かうにはエレベーターもあるが、二つの階段がある。 

【1912階段】【1935階段】だ。 

【1912階段】は1912(明治45)年の駅開業時に造られた階段。1936(昭和11)年の鉄道博物館(後の交通博物館)時代には、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として利用された。駅休止以来、初の公開です!! 

1912年の開業以来の階段ということで、この階段が110年前に作られたものとはとても思えない。 

今思い起こしてみれば、約170年前にはまだ江戸時代で黒船も着ていない頃だ。この短い期間で日本という国が近代化に向けてすごい速さで走り、今のこの時代があると思うと江戸時代の250年の鎖国がいかに外国からの影響をあまり受けてない時代か分かるし、技術の改良のスピードの速さが分かる。 

【1935階段】鉄道博物館(後の交通博物館)の新館が建設されることとなり、新たに1935(昭和10)年に設置された階段。駅休止まで使用され、2006(平成18)年に限定公開されて以来の一般公開となる。 

旧万世橋駅 駅貼りポスター 

旧万世橋駅の休止後、人が通ることのなくなった 

階段の途中に「重点輸送強化運動」という駅貼りの手書きポスターの一部が残されていました。実物は丁寧にはがされ保存されましたが、ここが駅であった数少ない証として複製品を元と同じ位置に復元し、展示しています 

万世橋高架橋 コア抜きレンガ 

1912年に完成した高架橋は詳細な図面が残されていませんでした。耐震補強工事で内部構造を確認したり、新たな出入り口を設置したりするために、レンガ壁を筒状にくり抜く工事が行われました。最も厚い所で約3Mのレンガ壁があることが確認され、非常に強固な造りであることがわかりました。工事で発生したコア抜きレンガの一部を保存し、展示しています。 

よくみてみると階段の踏面質が1920年のものと1935年は異なっている。ここでも年代の違いが出ていて面白い☆ 

旧万世橋駅 (明治・大正時代) 

中央線のターミナル万世駅は、当時、東京でも屈指の繁華街だった須田町交差点前に、1912年4月1日に開業した。当時の最新の技術で作られた煉瓦アーチの高架橋を背にして建てられた駅舎は、後に、東京駅丸の内駅舎の設計を手がけた明治建築界を代表する建築家、辰野金吾と葛西万司の設計で、壮麗なレンガ・石積(一部鉄骨造り)の2階建てで、駅舎内には食堂も併設されていた。駅前広場には日露戦争の英雄、廣瀬武夫と杉野孫七の巨大な銅像が建ち、須田町交差点には東京市電の各系統が集まり、中央線電車と市電の乗り換えターミナルとして、ますます賑わいを増していった。 

1923年関東大震災で駅舎が焼失してしまい、1925年には2代目駅舎が完成したものの、初代駅舎の壮麗さは全く失われてしまった。(現地看板より) 

万世橋について建築的観点から 

https://story.nakagawa-masashichi.jp/88165

交通博物館(昭和・平成時代) 

関東大震災後の復興計画による区画整理で、須田町交差点が中央通りと靖国通りの交差する現在地に移され、それに伴い路面電車の経路も変わったため、万世橋駅前は裏通りになり、かつての繁華街の賑わいは失われていく。1932年にお茶の水~両国間の高架線が完成して秋葉原駅が開業すると、万世橋駅の重要性はさらに薄れ、2本あったホーム1本に減ってしまう。 

1936年、かつての駅舎の基礎を利用して鉄道博物館(後の交通博物館)の建物が建てられた。昭和戦前期を代表する鉄筋コンクリート造りのモダニズム建築で、2つの円弧状の階段室が特徴的だった。この際、駅の機能は大幅に縮小され、駅長室や事務室、改集礼口は鉄道博物館の一画になり、ホームにつながる階段も位置が変更された。その後も利用者の減少は続き、戦時中の1943年には不要不急駅とされて営業を休止し、開業からわずか31年で万世橋駅は姿を消した。 

終戦後には駅前の銅像も撤去されたが、博物館は戦火を逃れ、70年もの長きにわたり多くの来館者で賑わい、鉄道への夢を育み続けた。しかし、さいたま市への移転が決定し、2006年5月14日、惜しまれつつ閉館した (現地看板より) 

http://www.minami-nagareyama.org/gallery/tokyo/kouhaku/index.htm 

こちらの場所は明治・大正・昭和・平成・令和と、時代を超えて賑わう場所であった。また近代化される江戸時代においても、日本橋から今川橋、神田を経て筋違門(すじちがいもん)に至る大通りは、江戸市中を縦断するメインストリートであった。このように、この界隈は、近世には城下の中心をなす町屋や物資流通の拠点である荷揚場があり近代となり万世橋駅を中心として繁華街が広がるなど、人やものが集積し賑わいをみせてきた地域である。 

(現地看板より) 

看板にも書かれていたように、江戸時代から時代ごとに変遷が激しい地域だが、どの時代も人やものが移動する中で新しい文化を発信している地域なのかもしれない。 

空間としては広くないが、筋違門や、万世橋の存在や、昔賑わった万世橋の賑わい、交通博物館での賑わいを思い起こせる場所でした! 

今回お邪魔したところは 

  • マーチエキュート神田万世橋 
  • 〒101-0041 東京都千代田区神田須田町1丁目25−4 
  • 電話: 03-3257-8910 

旧万世橋HP 

https://www.ejrcf.or.jp/mansei/

筋違門については 

https://wako226.exblog.jp/15406871/

前回お邪魔したところはこちら 

《内部リンク》お参りだけではない!?湯島天満宮の魅力《内部リンク》 

万世橋と縁のある神田祭を行う神社、神田明神についてはこちら 

参拝するだけで人生パワーアップ!?

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